放流(リリース)

第1章:ロスト

そこは、護岸すらされていない。 住宅街の端、藪をかき分け、急な斜面を滑り降りた先にある、とある河川の澱み。 知る人ぞ知る、というより、自分以外にここへ足を踏み入れる物好きはいない。

対岸の工場跡から漏れる、不自然なほど白い水銀灯が、水面を寒々しく照らしている。 聞こえるのは、重く濁った川の流れる音と、湿った土が崩れる音だけだ。

正木は、いつものルーティンを始めた。 PE1.2号。リーダーはフロロの20ポンド。 キャストのたび、ヘッドライトの光を当てて指先でラインをなぞる。 毛羽立ち、リーダーの摩耗、スナップの金属疲労。 どれか一つでも違和感があれば、即座にノットを組み直す。 彼は、不確定要素を排除することに執着していた。

「……完璧だ」

スナップの先には、長年愛用している『ワンダー80』。 その自重をロッドに乗せ、水面のわずかなヨレを狙って低く弾き出した。

着水音は小さく、闇に溶けた。 カウントダウン。レンジを刻み、ユラユラとしたアクションを想像しながらリトリーブを開始する。 だが、ハンドルを三回転させたときだった。

プツン。

あまりにもあっけない、糸の解放。 ルアーの重みが消え、ロッドのティップが虚しく跳ねた。

「……嘘だろ」

正木は呆然とラインを回収した。 スナップがない。 さっきまで確かにそこにあり、摩耗も歪みもなかったはずのスナップが、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。 ラインの先端は、鋭い牙で噛みちぎられたように、激しく毛羽立っていた。

納得がいかない。 このポイントで根掛かりなどしたことがない。 正木はヘッドライトを最大光量にし、足元のブッシュの影を照らした。

泥にまみれた葦の根元。 そこに、「それ」が引っかかっていた。

一見、ルアーの形をしていたが、色が異常だった。 生々しい、人の肌のような色。 長さは80ミリ。シンキングペンシル特有の、細長いシルエット。

拾い上げると、その「質感」に思わず手が震えた。 冷たく、ヌメりがある。 プラスチックの硬質さではなく、死んだ人間の皮膚のように、指先がわずかに沈み込む弾力。 そして、ルアーの先端からは、フックが「爪」のように突き出している。

「指……か?」

形は、人間の人差し指を第一関節から先で切り取ったものに酷似していた。 だが、手のひらで転がすと、先ほど失ったワンダー80と、重さも、重心のバランスも、恐ろしいほどに一致していた。

正木は、吸い寄せられるように予備のスナップを広げた。 カチリ。 完璧な適合。

この「指」なら、あそこのヨレまで届く。 正木は自分の思考が、泥水に濁っていくのを感じた。

「……一投だけだ」

正木は、その「指」を、河川の最も暗い場所へと放流した。

第2章:逆流(バックフロー)

指ルアーが、対岸のブッシュぎりぎりに入った。 着水音は、肉を叩くような「ペチャリ」という湿った音。

正木はベールを返し、テンションを張る。 ワンダー80特有の、潮を噛んでフラつく感覚。 だが、その指ルアーは、リールの回転に合わせて「何かが這い寄る」ような、粘り気のある抵抗を伝えてくる。

不意に、ティップが重く沈み込んだ。 根掛かりではない。ヌルリと、泥の塊が動くような生々しい感触。

「……食った」

合わせを入れると、ドラグが鳴った。 シーバスの鋭いエラ洗いはない。ただ、水底のヘドロをまるごと引きずり出すような、重苦しい引き。 リールを巻くたび、ガイドを通るPEラインが、キチキチと不快な摩擦音を立てる。 ようやく水面に浮上したのは、銀色の魚体ではなかった。

それは、泥と髪の毛が絡まり合った、巨大な「塊」だった。 ルアーの爪(フック)は、その塊の奥深く、人間の歯茎によく似た質感の場所に深く突き刺さっている。

正木は吐き気を堪えながら、それを陸に上げた。 塊の隙間から覗いたのは、数年前に彼が「不要な依存関係」として切り捨て、記憶の底へ放流したはずの……かつての恋人が身につけていたブレスレットだった。

「……っ!」

正木はルアーを外そうと手を伸ばしたが、指ルアーの「爪」は、獲物を離そうとしない。 それどころか、ルアー自体が正木の指を、自身の「欠損した一部」として認識したかのように、彼の肌へ吸い付こうとする。 彼はパニックになり、ラインをハサミで断ち切った。 塊は、音もなく泥濘へと滑り落ち、水底へ沈んでいった。

逃げるように車へ戻り、マンションへ帰宅した。 オートロックを抜け、高性能なスマートキーでドアを開ける。 外界の汚れを遮断する、彼だけの聖域。

だが、玄関に入った瞬間、鼻を突いたのは、あの河川のヘドロの臭いだった。

「……なんだ、これ」

廊下の床が、じっとりと濡れている。 足跡だ。 玄関からリビングに向かって、裸足の、しかし指の数が不当に多い足跡が点々と続いている。 その足跡は濡れているだけでなく、踏みしめた跡から小さな「泡」がプツプツと湧き出していた。

リビングのソファの上には、河川の澱みから「リリース」したはずの、あの泥と髪の毛の塊が置かれていた。 塊は、生き物のように微かに拍動している。

「あ……あ……」

正木が震える手でライトを向けると、塊の隙間から、あの「指ルアー」が突き出しているのが見えた。 ルアーのフックは、ソファの布地を深く、深く、まるで肉を抉るように引き裂いている。

不意に、背後の風呂場から「カラカラカラ……」という音が聞こえた。 正木が凍りつく。 それは、彼が使い慣れたスピニングリールの、ドラグが鳴る音だった。 誰かが、見えない竿を手にし、正木という「獲物」をじっくりと寄せているような、一定のリズム。

キッチンの蛇口が、ひとりでに回り出す。 溢れ出したのは水ではない。 黒いヘドロと、無数の「魚の目」だった。 ビー玉のような、感情のない魚の瞳が、排水溝から次々と溢れ出し、正木の足元を埋め尽くしていく。

第3章:リトリーブ

水位が上がる。 くるぶしまで浸かった泥水は、氷のように冷たい。 水面には、正木がこれまでの人生で「なかったこと」にしてきた端切れが浮いていた。 期限切れの督促状、かつて捨てた恋人の写真、そして、あの日、河川の澱みに消えた『ワンダー80』。

「……なんで、ここに」

正木はワンダーを拾い上げようと腰を屈めた。 だが、水中に手を伸ばした瞬間、何かが彼の指先を「パクり」と飲み込んだ。 激痛。 水面下には、巨大なシーバスの口が、床一面にひしめき合っていた。 彼らは餌を待っているのではない。 かつて正木が「リリース」した際に、その口に残していった「痛み」を返しに来たのだ。

「カラカラカラ……」

ドラグの音が、今度は寝室から聞こえる。 正木は抗うことができず、見えない糸に引かれるように、水の中を歩かされる。

寝室のドアを開けると、そこはもうマンションの一室ではなかった。 天井からは水草が垂れ下がり、壁は湿った泥の斜面へと変貌している。 部屋の中央、正木のベッドの上には、あの河川の澱みと同じ「濁った水溜まり」ができていた。

水溜まりの中から、一本の「手」が突き出していた。 その手には、正木がさっき切り捨てたはずのラインが握られている。 ラインの先は、正木の喉元に繋がっていた。

「……ご……ぼ……っ」

喉に違和感を覚え、正木が口を開く。 その中には、さっき拾ったはずの「指ルアー」が、深々と突き刺さっていた。 トリプルフックが舌の根元を貫き、喋ることすら許さない。

『……いい……よ……ね……?』

水底から、気泡が弾けるような、湿った声が響いた。 それは女の声のようでもあり、ただの水の音のようでもあった。 意味をなさない音の羅列が、正木の鼓膜を内側から湿らせる。

『……にがしたんだから……もどってきても……いいよね……?』

正木の喉に刺さったルアーが、グイと引っ張られた。 彼はベッドの上の水溜まりへと、頭から引きずり込まれていく。 マンションの高性能なセキュリティも、分厚いコンクリートの壁も、この「浸食」を止めることはできない。

彼は、自分が「リリース」したものの住処へ、逆に「回収」されようとしていた。

第4章:底

視界が、濁った緑色に染まる。 耳の奥で、水の重圧が「キィィィィン」と高い音を立てる。 正木は、自分の体がゆっくりと沈んでいくのを感じた。

ベッドの中だと思っていた場所は、もう底の見えない淵だった。 周囲には、彼が過去に「逃がした」魚たちが、無数に浮遊している。 どの魚も、口を大きく開け、正木の喉に繋がったラインを分担するように咥えていた。

「……ぁ……」

肺に残った最後の空気が、大きな泡となって口から漏れた。 それは水面を目指して昇っていくが、途中で無数の「魚の目」に遮られ、砕け散る。

不意に、ラインのテンションが緩んだ。 正木の体が、水底の冷たいヘドロに触れる。 そこには、彼がかつて中絶を強要し、記憶からデリートした女が横たわっていた。 彼女の顔は、水にふやけて輪郭を失っていたが、その右手には、あの「指」が欠落していた。

正木は気づく。 喉に刺さっているのは、ルアーではない。 彼女から奪った、彼女の一部だ。

彼女の手が、ゆっくりと伸びてきた。 その欠損した断面が、正木の喉に刺さった「指」と合流しようとする。 パチリ。 パズルのピースがはまるような、完璧な適合音。

その瞬間、正木の意識は、肉体から切り離された。

翌朝。 マンションの管理人が、水漏れの苦情を受けて正木の部屋に入った。 部屋の中は、驚くほど乾燥していた。 水浸しの痕跡も、ヘドロの臭いもない。 ただ、正木のベッドの上に、一匹の大きなシーバスが転がっていた。

死んでから時間が経過しているのか、魚体はひどく痩せ細り、眼球は白く濁っている。 管理人が不審に思い、その魚の口元を覗き込んだ。

魚の口には、ルアーが深く飲み込まれていた。 それはプラスチック製のものではなく、人間の指にトリプルフックを無理やり突き刺した、醜悪な「何か」だった。

管理人が悲鳴を上げて受話器を取ったとき。 部屋の隅、乾いたはずのフローリングに、一滴だけ、泥水がプツリと湧き出した。

川の澱みでは、今日も誰かが糸を垂らしている。 「完璧な管理」を自負するその釣り人の背後で、水面がわずかに盛り上がった。

リリースされたものは、必ず、還ってくる。