泥濘の底
【第一章:雨這(あまばい)の贄】
泥が降っている。 錯覚ではない。雨這山荘の分厚いガラス窓を叩きつける雨滴は、裏山の土塊を削り取り、粘液のように張り付いては這いずり落ちていく。 永遠に続くかのような豪雨。下界へと続く唯一の山道は、半日前の土砂崩れで完全に消失した。
十年目の慰霊。虫唾が走る茶番だ。 本革のソファに深く沈み込む神崎。ITベンチャーで当てた金で全身をハイブランドで武装しているが、小刻みな貧乏ゆすりが止められない。 グラスの氷を噛み砕く音。外科医の刈谷。白衣の下の震える手を、アルコールで必死に押さえ込んでいる。 爪を噛む女。元教師の美沙子。剥がれたネイルの隙間から血が滲んでいることにすら気づいていない。 スマホの画面を睨みつけ、圏外の表示に苛立ちを募らせるインフルエンサー、梨花。
全員、等しく滑稽だ。怯え切った豚の群れ。 十年前の今日。私たちは裏山の土を掘った。動かなくなった少女、白石繭を、泥の中に沈め、踏み固めた。 「誰かが喋るのではないか」 口裏合わせのために集まったはずの五人の間に、腐臭を放つ疑心暗鬼が充満していく。室温は低いのに、全員の首筋に脂汗が浮いている。
「……シャワーを浴びてくる。泥臭くてたまらん」 神崎が苛立ち紛れに吐き捨て、浴室へ向かった。誰も止めない。誰も関わりたくない。
一時間。戻らない。 誰も探しに行こうとしない。水音だけが不自然に響き続けている。 その沈黙が、逆に異常事態の輪郭を浮き彫りにしていく。 刈谷が舌打ちをし、重い腰を上げた。
脱衣所のドアは内側から施錠されていた。 ノブを乱暴に回す。開かない。刈谷の顔から血の気が引く。 蹴り破る音。木屑が飛び散る。 開け放たれた隙間から、淀んだ空気が嘔吐物のように溢れ出した。
生温かい。 そして、異様なまでに濃密な、腐葉土の匂い。 山荘の中枢にいるはずなのに、まるで地中に生き埋めにされたかのような錯覚。息が詰まる。
真っ白なタイル張りの浴室。 バスタブの中に、神崎がいた。
水は一滴も張られていない。 神崎は全裸で、乾いた空のバスタブに仰向けに倒れていた。 眼球が限界まで見開かれ、毛細血管が赤黒く破裂している。 大きく開いた口。喉の奥まで、どす黒い泥がぎっしりと詰め込まれていた。 鼻孔からも、耳の穴からも、粘着質な泥が溢れ出している。 肺が、泥を呼吸したのだ。
水のない密室での溺死。
硬直したままの神崎の喉仏が、ひく、と不自然に上下した。 死後硬直の始まりか、それとも。
黒い唇が裂けるように開く。 胃袋から逆流した生温かい汚泥の塊が、ゴポリ、と白いタイルに向かって吐き出された。
【第二章:泥の産声】
梨花の悲鳴が鼓膜を突き破った。 嘔吐。胃液の酸っぱい臭いが、濃密な腐葉土の匂いと混ざり合い、狭い脱衣所に充満する。 刈谷は後ずさり、タイルに尻餅をついたまま自身の股間を濡らした。染み出す生温かい液体。外科医の矜持など微塵もない。アルコールで萎縮した脳の、これが限界だ。
「呪いだ」
誰が言ったのか。美沙子だ。 剥がれたネイルから血を流す指先で、自身の長い髪を乱暴に掻き毟っている。頭皮から血糊が剥がれ落ちるのも構わずに。 「あの子だ。繭が、息を吹き返したんだ。泥の中から這い上がって、私たちを……!」 狂乱。十年間、綺麗事でコーティングしてきた薄皮が、泥水の一滴であっけなく剥がれ落ちた。
広間に戻された三人の生存者。 薪ストーブの火は頼りなく、窓を叩く雨音だけが世界の全てを支配している。 「神崎は殺された。俺たちの中の誰かに」 刈谷がブランデーの瓶を直接煽りながら呻く。目は誰とも合わせない。 「密室だぞ。どうやって肺に泥を詰める? 換気扇から土砂でも流し込んだとでも言うのか」 物理的な不可能。だからこそ、彼らは怪異に縋る。人間の脳は、理解できない悪意を前にすると「呪い」という安直な箱に放り込んで自己を保とうとする。 滑稽な自己保身。私は黙って冷めたコーヒーをすする。泥の味がした。
夜半。自家発電の明かりが、不規則な明滅を始める。 自室に引き籠もった美沙子の部屋から、奇妙な音が漏れ聞こえてきた。
ズリ、ズリ。
重い土嚢を床で引きずるような摩擦音。 次いで、空気が抜けるような、獣の嗚咽。
マスターキーを持つ私が先頭に立つ。背後に隠れるように、怯え切った刈谷と梨花が続く。 鍵穴にキーを差し込む。回る。施錠はされていない。 重い木製のドアを押し開ける。
むせ返るような、強烈な土の匂い。
天井の太い梁。 美沙子が、揺れていた。
シーツを裂いて作った粗末な縄。首の肉に深く食い込み、頸動脈周辺がどす黒く鬱血している。 だが、ただの縊死ではない。 宙に浮いた彼女の足元、そして壁一面に、おびただしい量の「泥」が乱いつけられていた。 まるで、床板の下から這い出てきた無数の泥の手が、彼女の足首に群がり、そのまま壁をよじ登って天井まで引きずり上げたかのような、赤黒い土の軌跡。 垂れ下がった美沙子の素足から、ボタ、ボタと、粘液のような泥が絨毯に滴り落ちている。
絶命している。眼球は限界まで飛び出し、白濁した瞳が私を見下ろしている。 紫色の舌が、胸元までだらしなく垂れ下がっていた。
その舌の上に。 蠢くもの。
白い、蛆。 十年前のあの夜、土の底で繭の肉に群がっていたものと同じ、丸々と太った蛆虫が、美沙子の口の奥から次々と湧き出し、泥に塗れた床へとポロポロとこぼれ落ちていった。
【第三章:泥試合】
美沙子の肉塊を降ろす気にはなれない。床に落ちた蛆が絨毯の繊維に潜り込んでいくのを、ただ眺めている。
広間に戻る。薪ストーブの火はとっくに死んだ。 刈谷の震えが止まらない。空になったウイスキーの瓶が床を転がり、鈍い音を立てる。アルコールが切れたのだ。眼球が痙攣し、虚空を這う見えない虫を払いのけようと両手を振り回している。 梨花は真っ暗なスマホの画面を、血のにじんだ爪で力任せに引っ掻いている。「圏外、圏外、圏外」と、壊れた玩具のように呟き続ける。
「呪いじゃない」
私が静寂を破る。二人の血走った眼球が、一斉にこちらを射抜いた。
「神崎の浴室。換気口のダクトは裏山の斜面に直結している。昨夜の土砂崩れだ。もし、誰かが意図的に泥水だまりにパイプを繋ぎ、ダクトへ流し込んだとしたら? 高低差による凄まじい水圧。内側から鍵のかかった密室は、外から泥水で満たされる」
刈谷の喉が、ひゅっ、と鳴った。
「バスタブの中で神崎を泥水に溺れさせた後、外からパイプを外し、排水溝から水だけを流し切る。残るのは、肺に泥を詰まらせた死体と、空のバスタブ。……物理的な、人間業だ」
沈黙。雨音が異様に大きく聞こえる。 梨花の顔の筋肉が、引き攣るように歪んだ。恐怖ではない。肥大化した疑心暗鬼が、どす黒い防衛本能へと変異する瞬間。
「あんたね、刈谷」
梨花が立ち上がる。その手には、重い真鍮の火かき棒が握られていた。 「あんた、神崎さんに借金あったじゃない。それに美沙子も、あの日繭を埋める時、一番震えてたあんたをずっと見下してた! 自分が捕まらないための口封じでしょ!」 「狂ってる! お前こそ、過去の炎上を恐れて……!」
刈谷がポケットから刃渡りの短いナイフを取り出す。護身用にとキッチンからくすねていたペティナイフ。刃先が、アルコール切れの禁断症状で小刻みに揺れている。
醜い。 己の罪を棚に上げ、生き残るためだけに他者の肉を裂こうとする。 十年前、泥の中で息絶えようとしていた繭を見下ろしていた時と、何一つ変わらない。あの時も、誰一人として救急車を呼ぼうとはしなかった。自分の未来を守るために、土を被せた。
私はソファに深く腰を掛け、特等席で劇を鑑賞する。 泥臭い室内。獣のような咆哮。 火かき棒が空を切り、刈谷の側頭部を砕く鈍い音。 もつれ合いながら床を転がり、刈谷のナイフが梨花の太ももに深々と食い込む。
肉が裂け、鮮血が噴き出す。 悲鳴と罵声が、十年前の泥の記憶を真っ赤に塗り替えていく。 私は、冷え切ったコーヒーの残りを喉に流し込んだ。
【第四章:泥濘の底】
火かき棒が頭蓋を砕く音は、熟れすぎた果実を靴底で踏み潰した音によく似ていた。 薪ストーブの前の絨毯。刈谷の脳漿と血液が、泥の足跡と混ざり合ってどす黒い染みを広げている。 その血の海の中で痙攣する梨花の首には、ペティナイフが柄の奥まで深々と埋まっていた。ヒュー、ヒューと、切断された気管から漏れる空気が血の泡を吹かせている。 やがて、それも止まった。
静寂。 雨音だけが、変わらず分厚いガラスを叩き続けている。
終わった。邪魔者はすべて消えた。 十年前の秘密は、これで完全に守られた。奴らが最近になって「繭の姿を見た気がする」などと余計な勘繰りを始めなければ、こんなに早く処分するつもりはなかった。 他人の目など節穴だ。密室も、泥の溺死も、少しばかりの手間と物理法則を利用しただけの児戯。それに勝手に怯え、狂い、殺し合ってくれた。
私は大きく伸びをし、血の海を避けてキッチンへ向かう。 冷蔵庫の奥から保存容器を取り出す。中身は、少し傷みかけた豚肉と、裏山の泥を丁寧に混ぜ合わせた特製のペースト。 山荘の奥、分厚い扉を開け、冷たいコンクリートの階段を下りる。 一段下るごとに、カビの匂いと、鼻腔の奥に張り付くような強烈な悪臭が濃くなっていく。甘ったるく、胃の底を直接掻き回すような、死の匂い。
地下室。重い鉄扉の南京錠を外す。 ギー、と錆びた蝶番が耳障りな音を立てる。
「繭、ごめんね。上が騒がしくて」
窓のない、真っ暗な部屋の中央。鎖に繋がれたパイプベッド。 十年前、泥の中から掘り起こした彼女は、息を吹き返したものの、すでに人間としての機能のほとんどを喪失していた。言葉も話せず、ただ床を這い回るだけの肉の塊。 だから私が、この地下室でずっと、大切に飼育してきた。誰にも渡さない。私だけのものだ。
手元の懐中電灯をカチリと点ける。 円形の光が、ベッドの上の繭を照らし出す。
「お腹、空いたよね」
シーツには、黒ずみ、液状化して腐敗した肉がべったりとこびりついている。 膨れ上がった腹部にはぽっかりと大穴が開き、そこからとめどなく、丸々と太った無数の白い蛆が溢れ出し、床へとポロポロとこぼれ落ちていた。 眼球はとうの昔に溶け落ちている。黄ばんだ頭蓋骨の、ぽっかりと空いた黒い双眸の空洞が、真っ直ぐに私を見つめ返している。
数ヶ月前に餓死した愛しい繭に、私は優しく微笑みかける。
容器の蓋を開け、スプーンで泥まみれの腐肉をすくい取った。 肉の削げ落ちた下顎の骨に手をかけ、無理やりこじ開ける。特製の食事を、その暗い喉の奥へと押し込む。
ボキリ、と。 乾いた骨の折れる音が、冷たい地下室に虚しく響いた。
「美味しいかい? ずっと、ずっと一緒だからね」
泥と腐臭にまみれた暗闇の中で、永遠の愛の囁きだけが、いつまでも反響していた。